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 それから、又、一夜。
一項、櫛代 名
二項、https://picrew.me/share?cd=j9pSyPrYeC 面
三項、六尺二寸 身
四項、用心。十分に
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おしらせ櫛代さん(iPhone au)が退室しました。  (9/4 01:53:44)

櫛代さて、そろそろ就寝致しましょうか。孫にあたるお坊ちゃんとのお話は又、何れ、機会がありましたら。それでは、然様なら。   (9/4 01:53:39)

櫛代然し、これらの事がありましてから私は師範に勘当されていますから、改めて私も私の行いを悔いております。永く生きているからといって、全て善く対処できるという訳でも無いのです。人間にも当て嵌まります。   (9/4 01:50:39)

櫛代長くは成りましたが、私はあの日より以前にもまして生物への執着を感じております。今にして思えば、彼が生きた一九〇〇年代では、うつ病の認知が極度に低かったと思います。早期発見、適切な治療が医療に於いてはとても重要で、昭和を終えて平成に至る時、其うして今日迄の研究で、其のような事態が身的休養のみで解決されるなどと考えられておりません。その一例として、MMP8による側坐核の微細構造変化が要因の一つではないかと考えられております。側坐核は人間においても非常に重要な神経核で、これらやその他の事からも、単なる心的疲労だけという認知では無くなってまいりました。大変喜ばしい事ですが、いつの世も無情な物ですね。   (9/4 01:44:47)

櫛代そうして直ぐに施設に入れられる事に成った事は、幾ら五つの子供と言えども厭でも理解出来ましょう。ですから、先日の様に幾年振りに見えました書簡の苗字に、やや思う所が有り乍らも無視する事など出来ず、訪問して参りました。   (9/4 01:22:15)

櫛代其の時の私は、時代宛ら、洋装が上等な物でありますから、彼に会うならばとややゆったりとしたトラウザアズの、一九〇〇年代で人気がありましたカレヰなるギャツビイの様な、格式高く相応しい、けれども黒一色のスーツを着ておりました。加えて、高い頭身でありましたもので、まだ幼いお坊ちゃんからしてみれば、とんだ死神の様な姿で有ったでしょう。   (9/4 01:13:18)

櫛代其うしまして、私が意図的にお迎えした奥様の最期を眺めていました時、病室の扉が再度開く音がしました。それは当時、歳の頃五歳になりますお孫様の姿でした。助六の息子は、子供をつくったものの家内の名も告げず、己さえも姿を眩ませたどう仕様もない男と聞き及んでいまして、私は咄嗟に奥様のお姿をお坊ちゃんから遮る様に立ち会いました。其れは、かのお坊ちゃんからしてみましては、ただ唯一の親族で有りました為です。   (9/4 01:03:38)

櫛代齢四十四になります奥様から、これ程切迫した申し出を頂きまして暫くの熟考をいたしてから、もう一度判りましたと告げ、私は病室を後にしました。此の階の如何にも奇しい雰囲気、其れから、人気の無さ。成る程と思いまして、開いた扉の奥には彼が見てきたで有りましょう数多の患者と同様に横たわる一人の男がおりました。然し、その姿はどれ程の病を抱えて没されたのかと戦慄するほど頬は痩せ痩け、凛々しくはっきりとした顔立ちであった男が、ここ数年で、まるで何十年と歳を重ねた様でした。皮膚の注射痕を隠す様に掛け布団を再度掛け直して、心拍の確認をしてから申し付けの通り、私は彼女の元へと戻りました。   (9/4 00:53:27)

櫛代彼がわざわざと、私に対する文言の最後で此の様に仰ったのは、生前私が生命に関する文献に深く関わっており、師に医者を持っている事を知っての事でしたので、であるならば、事後の処理を宜しく頼みたいとの、そう言った彼らしい回りくどい言い様でした。私は、判りましたといった一言を告げてから、彼女に深く頭を下げその場を後にしようと致しましたら、引き止める様に上半身を動かし、ベッドから転げ落ちて、下肢で這い蹲ってでも此方に「もし、助六が本当にやりましたなら、私もお供させて下さい。」と、強く懇願しました。   (9/4 00:37:44)

櫛代半紙を折り目に沿って畳み、便箋に直しましてから、「旦那様は、何処へ。」とお伺いしますと、彼女は今まで上げていた視線をようやく落として、床沿いに私を見上げましては、「此処を出て、その奥の病室で。」とお応えしました。   (9/4 00:24:03)

櫛代次に並ぶのは息子と、産まれたばかりの孫へ必要に二言ずつ、半ば懺悔の様な、けれどもどうかお願いしますと言った様な、無謀な親心からの切な願いが綴られておりました。恐らく砂子さんに対してでしたもので、成る可く目を向けぬ様下へ下へと読み進めては、私の名に対しても二言程、添えられておりました。彼女と同様、大変お世話に成りましたと言った言葉と、自分は数年前からどうにも悪魔に取り憑かれてるようで、仕事も自分も、どう仕様もないですから、自殺いたします。と言った、殴り書きの様な、締め言葉でした。   (9/4 00:19:44)

櫛代封を切って取り出した一枚の半紙からは、確りと私の名も彼女と同様に宛名になっているものですから、彼を想って訪れた現状が全て助六の御見通しの様な不気味さが有りました。其処には彼女への世話になったという文、其うして又、迷惑を掛けて仕舞う事どうも詫びさせてくれと言った言葉から書き出されており、初めて拝見致しました私は奥様が先に読まれないのかと不可思議では有りましたが、彼女はどうも内容を判っているといった様子に目を伏せており、生唾を呑んでから再度、次文に目を当てました。   (9/4 00:08:13)

櫛代彼女が仰るには、彼、永田助六の奥様に当たるそうで、私は一度もお会いしなくとも、彼女は知っている様でした。其うしましては、大変失礼では有りますが助六様は何方へとお伺いしますと、彼女は一つの便箋を私に手渡します。その手の何とか細いことか、浮き出る様な骨から目を逸らして、受け取りました便箋の封を切ってから、「拝見させて頂いても?」とお聞きしますと、彼女は小さく頷くのみです。   (9/3 23:54:58)

櫛代彼女はクロウシェ帽の良く似合う貴婦人のような風采で、けれども髪は黒く、長く、艶やかで、宛ら和製人形の様でした。肌は青白く燻んでいて、可愛らしい大きな目が病の進行で落ち窪んでいる様な、此の一室に独り置き去りにされた様な、そんな女性でした。私はすっかりと部屋を間違えて仕舞ったのだと、早急に頭を下げようとしましたところ、彼女は如何にも私を待っていたかの様に告げます。妾は永田砂子と申します。と、ただの一言のみを告げます。   (9/3 23:48:22)

櫛代階段を登っている最中、辺りが自棄に暗い事に気が付いてからは余計に憂慮いたしましたが、ただ此の階の周辺が使われていない病室で有るだけで、この病室の扉を開けば其処に友人は確かにいらっしゃるのだろうと、只の一度も疑いようのない私は手に掛ける病室扉を開く事数十秒。白いベッドに座っている人物に、茫然と、瞬きを繰り返しました。   (9/3 23:40:54)

櫛代木々の緑とは正反対に、黒く仰々しい門を渡った先には先程までの威圧感などすっかり無い様な、小ぢんまりとした入口扉でした。扉を引いて、顔を上げた先私は、受付嬢に「此処にいらっしゃる、永田様に、お会いしたく。」と直ぐに申しました。彼の姓は、紛れもなく永田と言います。そうしまして、お嬢さんは手元の紙を少し見てから、「わかりました。三〇一号室で御座います。」と仰ります。私は少し、おや。と思いましたが、頂いた紙を確りと持ちながら、長い廊下を辿って奥の階段を上がりました。   (9/3 23:35:29)

櫛代いよいよ返書が望めなくなった三年後、時代は平成へと移り変わりましてからは確かに横吹く風が真新しい何かへ向けて歩き出しているような、そういった香りを感じていたのを覚えております。木の葉の桃色が枯れ落ちます頃、他に請け負っていた頼まれ事がすっかりと片付いて仕舞いまして、返書を待つより先、此処で初めて、彼の病院へと赴きました。   (9/3 23:22:08)

櫛代そう、……そう。結論と致しましては、彼からの返書は此の手に触れる事が叶いませんでした。彼と私が文を通じて繋がっていた期間は実に五年程でしたが、その間に只の一度も顔を見せ合っていないのかと言われましては、そのような事は御座いません。然し、彼からの書簡が徐々に薄らいできた頃、昭和六十四年。新しい年の始まりだというのに、小さな町を蝕む流行り病に以前とは亦比べ物にならない程患者を受け持った彼は、その忙殺を確りと書き示していました。けれども、彼の他に医者と呼ばれる者がおりませんでしたので、其れがどれ程の泥臭い環境で有ったのかは私が病院に訪れた際、やっと判りました。   (9/3 23:08:09)

櫛代…おや。昨晩はすっかりと長話をして仕舞っていたようですね。かの様なお話、ただ私の懺悔と言ってもそう違わないもので御座いますが、興味を示して下さいましたこと勝手ながら拝見させて頂いておりました。ただ、言及する隙が有りませんでしたので此の場をお借りして。私も巧妙な者では到底ないですから、またお見掛け頂いた際には是非お待ちしておりますよ。今を生きる人間の皆々様方のお話、其れより価値のあるお話など何処に有りましょうか。   (9/3 22:31:13)

おしらせ櫛代さん(iPhone au)が入室しました♪  (9/3 22:25:25)

おしらせ櫛代さん(iPhone au)が退室しました。  (9/3 01:11:13)

櫛代本日は此処迄に致しましょう。続きは又、後日。   (9/3 01:11:08)

櫛代彼の書は、機械と言われましても遜色ない程洗練されており、その一筆が乱れる事など一切合切有り得ませんでした。けれども、何故だか墨からは、彼の中の焦りを感じてしまっては、仕様がないのです。気に掛かってしまって、どうにもそうにしか思えなくなってしまいましてからは、私は急いで、此方から書簡を送りました。   (9/3 01:10:24)

櫛代如何して不可思議に思えなかったものでしょうかと言われれば、私は返書に墨を使っていました。当然、それがなんたるか、其れだけの事ですけれども、私が可笑しく思わなかったのはその文字、自体が如何にも見慣れていたものであったでしょう。ですから、当時は、書簡が届かぬこの事態に喜ばしくありましたが、本当に目をつけるべきは字体であったのです。   (9/3 00:59:12)

櫛代一見何時もと変わりありません。先ず頭語を経まして、お変わり有りませんか。寒くなって参りました。といった、相手を気遣うような、ごく一般的な文言から。けれども、その時は、ボウルペンではなく、墨で認めておりました。普段でしたら流麗な文字が、一律に書き添えられているものだのに、その日はどうしてか書き慣れていないような、洗練されていないような渇筆が彼方此方に散らばっていました。   (9/3 00:45:50)

櫛代然し書簡の数が二十を超えた頃、彼はぱったり筆の跡を寄越さなくなりました。初めは其れが大変喜ばしい事だと箪笥の隅に畳んで服と共に仕舞っておりましたが、如何にもその箪笥から引き出した肌小袖の夢見心地が悪くありましてからは、やや当て付けのような浅ましさで、一番上に重ねていた最後の文を開きました。   (9/3 00:33:25)

櫛代当時は機械にめっぽう弱かったですから、一文字、一文字、私が綴っておりまして、其う言った事も自棄に男の興味を唆ったのでありました。男は助六という名の人間で、町医者と言うには惜しい、至極清良な医者でした。然し、家内が持病を患っておりこの町に留まっているような、そんな男でした。私は、医学の知識こそ謙遜して御座いませんが、師範が医師でしたものでそれなりに彼との話に苦難を強いられる事は有りませんでした。そうして、共に過ごす時間が増えるにつれ、彼は私に助言を求めて書簡を差し出す事が度々ありました。その度に返書を認めて、そう間も空けず、感謝の返し文を頂きますから私もどうにか彼の力になって差し上げたいと思うようになっていました。   (9/3 00:17:01)

櫛代何故書物の内が眼に入ったのかと言いますと、私が不本意に落とした一枚を男が拾い上げた時、序章であります一文で、遂に彼は一頁も読まずしてお判りになられたのでしょう。私に対して名を訊くよりも先に、「其れらの文言は、貴方がお書きになられた物でしょうか。そうでしたら、もう一方の和綴も、同じ物でしょうか。」仰る通りですとお応えしましてからは、彼とは度々連絡を取り合う友人になりました。   (9/2 23:49:08)

櫛代彼の祖父とは、祖父に当たります男が歳の項凡そ四十三程の少年でした頃、当時物珍しい蝶を追い掛けて奥林から降った先、山の麓にて出逢いました。彼は堅忍質直といったような人柄で、けれども、心の奥にはしっかりと人間の少年らしい好奇心を持ち合わせておりました。ですから、すぐに私の持つ書物に興味、関心、燦々としていて、自分は此処を降った直ぐ其処の町で、患者をもっている医者だと告げました。私の持つ書物が、生命に関する物だと判ってから、木の葉が落ちるよりも早く、そう告げました。   (9/2 23:29:35)

櫛代如何様な憾み辛みも仰って下さいと、下ろしたばかりだのに薄暗く無礼な、黒いエナメル靴を揃えましてからは彼は暫くと緊張をした息遣いではありましたが、「如何様なつもりも御座いません。」とのみ応えて、私を奥の部屋へと招きました。では、此の程は如何にと一拍打ってから聞き返しました私は、他でもない祖父との研究についてのお話だと判ったのです。   (9/2 23:09:08)

櫛代彼を厭わしく思っているのでは到底無く、寧ろ、私の方がそうでありましょうと衣の内に仕舞いこんで参りましたところ、彼は恭しく頭を四十五度に下げまして、私はついにその十度下迄下げました。   (9/2 22:51:01)

櫛代御指名受けるのは幾年振りでしょうか。人里薄らいだ木々の奥隅の、ひっそりと聳える日本家屋に住まう縁深き男。その凡そ孫に当たります彼の元へと是非にと直々仰せつかってからは謹んで行って参りました。余り長居するのもどうしたものかと思いまして、では私はそろそろと言った文句を少なくとも四度、申し上げた頃に漸くと此の家へと足を運べました。   (9/2 22:43:01)

おしらせ櫛代さん(iPhone au)が入室しました♪  (9/2 22:21:23)

おしらせ無言時間が25分を超えたため、櫛代さんが自動退室しました。  (7/27 00:10:00)

櫛代種と生を軽んずるべきに非ず。…師範が良く私に言い聞かせた事です。山に帰り、土を踏んで、様々な声を聞くと私はその全てに非常に興味深い感情を抱きます。然し、其れこそが最も非難に値するべき行為だった。…難しいものです。いつの世も、生命への冒涜と解明はまるで表裏一体の様で。( 閉じられた書物の面を撫でた時、指先に触れるざらつきが、その年月を確りと示す様に音として声を上げた。恐ろしくもあり、郷愁とも成り得る。)   (7/26 23:44:06)

櫛代…実は、此の所また山に帰っておりました。というのも、私の研究の話になってしまうのですが、面白い生態系の観測に立ち会えたのです。 ( 紐緩める様に、背へ回した手が帯に沿った其れへ親指を掛け、底へ押し掛けまいとしたもの律を滲ませる着物に少しの綻びが浮かび上がった。役目を果たした腕が次に延びる先は目の前の低い木製の机。その机上に、持ち帰った資料を淡々と重ね、また分類をしながら、書物の擦れる霞んだ音と共に緩やかに上げられた両の口角はこれまた随分と此度の帰省の満足度を物語っている様。)   (7/26 23:20:37)

櫛代……ご機嫌よう、皆々様方。人里はまた随分と暑いですね。( 戸を開いた先、懐かしくも愛おしい香りに背は向けたものの、綺麗に踵を揃えた革靴を披露目ては、姿見ぬ陰に差し出す暑中の見舞いを込めた挨拶を。薄らと汗ばむ様な素振りを見せて、一、二度と額を手甲、次に指先と控えめに拭う素振りを見せるも、湿気の感じぬ肌は生気をまた随分と遠避ける。普段より念を入れた伊達締めが、窮屈さからとうとう厭になった頃、畳に腰を下ろして正座をした。)   (7/26 22:52:00)

おしらせ櫛代さん(iPhone au)が入室しました♪  (7/26 22:29:24)

おしらせ新規ルームを作成完了しました。(iPhone au)  (7/26 22:27:51)


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